北日本放送(KNB WEB)からです。戦時中、ろう者たちはどのように過ごしていたか?手話で話しておられますので、どうぞご覧ください。

北日本放送(KNB WEB)ニュース番組からです。

戦争体験者は年々少なくなっています。

そうした中、耳の不自由な人たちが当時、戦火の中をどのように生き延びたのか、どのような体験をしたのかを伝え残そうという人たちが動き出しています。

羽廣記者のリポートです。

「よろしくお願いします…」

富山市に住む竹川秀夫さん86歳です。

あの夜。富山大空襲の晩のことは脳裏に深く刻まれています。

竹川秀夫さん「空襲があったときは、8月1日の夜ですね、7時か8時くらいに、寝ようかとしているとき、母親と一緒に寝ようを思ったときに、突然アメリカの飛行機がきた。」

生まれつきの障害で耳が聞こえない竹川さん。

両親と弟、そして同じく耳が不自由な姉との5人家族でした。

富山大空襲のあったあの夜、父の政直さんは出征していて一緒にいませんでした。

当時住んでいたのは竹川さんが通う盲唖学校の近く富山市赤江町。

ここで、残る家族4人は、空襲に見舞われました。

竹川秀夫さん「(耳が聞こえない私と姉が)ばらばらに避難するとだめだということで。帯がかかっていた、長い父親が使っていた長い帯、それが部屋にかけてあった、その場にはいない出征していた父親の帯が、耳の不自由な姉弟の命綱になりました。」「それを母親が見て、母親と私と姉と3人を一緒に縛って、そして防空壕に逃げた」

「戦時」という時代が、障害による差別も生んでいました。

竹川さん「赤紙が来て、ろう者の家にも送られたりする。(先輩が、徴兵の)検査を受けて「ろう者だから、だめだ」 というふうに兵隊には行けられない。という不合格のはんこをもらって、帰ってきたという話を聞いたことがあります。」

竹川さん「兵隊に行けないということで、ろう者だということでいじめられるということがありました。」

耳が不自由な戦争体験者の声なき声。貴重な証言を映像で集めたのが針山和雄さん(70)です。

3年前、戦後70年のことでした。

針山和雄さん「戦争ということに対して、絶対にあってはならないという想いは、聞こえる者も聞こえない人も同じだと思うんです聞こえない人の体験を知ってほしいなという風に思って作った。」

あの日。空襲警報や爆音、命が焼き尽くされてゆく音が溢れていた日。針山さんは聴覚障害者6人の戦争体験を1枚のDVDにまとめました。

そのうちの一人富山市の今井英二郎さんです。

妻と、幼い娘の3人で戦火の中を逃げまどいました。

今井英二郎さん「飛行機がやってくると空襲警報というサイレンが鳴る。でも聞こえないものですから、警報が全然わからない。どうなっているのか、非常に心配になった。幸い隣の奥さんが助けてくれた」

今井英二郎さん「(空襲の後、)私たち3人は道を歩きながら行った。道にはたくさんの人が死んでいる。顔が焼けただれて、亡くなっているわけです。」

貴重な体験談。しかし収録できた6人のうち4人は既に亡くなりました。

故・谷口隆さん(入善町)1997年5月収録「富山方面を見ると真っ赤に燃え上がっていてて怖かった足が、がたがた震えた」

故・吉田嘉徳さん(富山市)1997年5月収録「飛行機が70機ほど飛来し、辺り一面に爆撃したすごい爆撃で燃え広がり、逃げた」

あの戦争を富山の障害者はどう生き抜いたのか。体験を語れる人は年々減っています。

今月1日、73年前に富山大空襲があった夜、砺波市で高校生が手話などを学ぶ合宿が開かれました。

針山さんは会場で制作した映像を流しました。

男子高校生「耳が聞こえないとほかの音とか聞こえないから、戦争を体験した耳の聞こえない人は、やっぱり怖い想いをしていたと思います」

女子高校生「耳とかも聞こえないのに、苦労してきて戦争ってやっぱりいけないことだなと思いました」

針山さんはこの映像を通じて少しでも多くの人に聴覚障害者の戦争体験を伝えていくつもりです。

竹川秀夫さん「また戦争が起こるというのは、本当にいやなことですだめだと思います。平和が1番いいと思います」

竹川秀夫さん「若い人に(聴覚障害者の戦争のことを)分かってほしいという気持ち。また戦争がなくなるようにみんな頑張ってほしいということ。そういう気持ちの人たちを応援したいということもあります」

手話で語る戦争体験。その証言から現代の私たちが学ぶことは多くあります。

興味がある方は、手話通訳士、針山さんまで、問い合わせをお願いします。

電話番号は090-2836-3687です。